昭和48年05月01日 月次祭



 只今お祭りを仕え終わらせて頂いて、御祈念の座に着かせて頂きました途端に、雨の風の音が致しております。雨風の音が随分強く降っておるようですし、随分強く風が吹いておるようです。それを聞かせて頂いた途端に、何か知らんけれども、有難いんですよね。これは有難いというものはね。理屈じゃないようですよ。雨の音を聞き風の音を聞かせて頂いて、有難うございますとお礼を申し上げる。
 それは内容を色々思うてみるとね。降る事も照る事も、吹く事も有難いんだと、日頃教えを頂いておる。ですからおかげであると言う事も、それが段々分かり込んできたわけでもありましょう。同時昨日一昨日でしたか。テレビでは九州地方はもう福岡県を中心にして、どこも曇り後雨で御座いました。昨日もそうでしたですねやはり。曇り後雨でした。今日も矢張りそうでした。それで昨日でしたか。
 福岡の高橋さん所から、お電話が架かってきた。ちょうど末永先生が御結界奉仕しておる時ですから、それをお受けした。香椎花園から弁当が、三百の注文があっとりますが、お天候がテレビではあんなに言っているが、どうさせて頂こうかと言う事であった。それで神様にお願いさせて頂いたら、三百よりももう百多く作った方が良かろう様に感じたとこう言うのです。それで三百どころか四百作りなさいと、こう言うたと。
 さぁその後に、神様に一生懸命にお願いをしておるわけですね、先生。それでまた私の所へ来てから、こういうお取次ぎをさせて頂きましたから、どうぞよろしゅうお願い致しますとこう言う訳なんです。やっぱり降ったんでは、香椎花園ですから人出が少なかろう。少なければお弁当も売れない事になります。昨日もまた電話が架かってまいりました。あちらの奥さんから。それもまた今日の事でした。どうさせて頂こうかと。向こうから注文が来とるだけ作りなさいと、私は申しました。
 まぁ言うならばお天候に拘りのある、そういうお取次ぎをさせて頂いて、テレビでは曇りのち雨曇りのち雨と、二日間続いて言っておるのに、おかげを頂いてこの夕方まで、お天候のおかげを頂いておると。そしてのこのお湿りであり、風であるのだからかも分かりません。何が有難かったかて、はっきり分からない。降る事も有難い事だ。照る事も有難いことだ。いや吹く事ですらが有難い事だ。
 神様のお恵みなのだと、話を聞かせて頂いて、それを思いこませて頂いておる所から、降る事に対しましても、吹く事に対しましても、有難うございますと。それを繰り返して、有難うございますと言いよると、もう涙が零れ落ちそうになるほど有難くなる。私はね信心とは段々段々、そのような生活に入っていく事だと思います。理屈じゃないです。家庭の上においてもです。はぁこれが降っておるのであろうか、いや風が吹いておるのであろうかと。それこそ炎天の最中を思わせるような。
 炎天烈日の如しと言う様な日もございましょう。けれどもね、それが訳は分からんのだけれども、有難いと心に感じれれる。繰り返して言いよると涙がこぼれるほどに、有難うなってくると言う所。それが信心者の私は、願わなければならない、目指さなければならない信心とは、そういう信心だと思うのです。その事を繰り返し繰り返し、上に雨の音を聞き、いわゆる雨風の音を聞いて、お礼を申させて頂いておったら、神願にあの蕗がいっぱいしこっておる。
 今下がる時に見たら、大盛りにやっぱ蕗がお供えしてある。お野菜の蕗です。妙賀栄える富貴繁盛と言う御理解を頂いた事がある。妙賀と言う事は賀びの妙と書くのです。賀びの妙と言うのは、人が賀べない所に、賀べれると言う事なんです。人が腹を立てておる。人が悲しんでおると言った様な時であってもです。はぁこらにくじの雨じゃこら、大変な風だと言うておるような時であってもです。その事に対して心からお礼が言えれるという心。そこから賀びが湧くという心。
 是はねもう与えられるものです。賀びの妙と言うのは。普通で言うならばしろしいとか、腹が立つとかと普通のもんなら言うておる時にです。有難いなぁとどっから湧いて来るか分からんけれども、有難いという心で心がいっぱいになる。そういう心に愛でて神様が、妙賀を与えて下さる。賀びの妙を与えて下さる。その賀びの妙がお互いが願っても止まない、富貴繁盛の元になると言うのです。妙賀栄える富貴繁盛である。妙賀が愈々栄えてくる。賀びの妙妙なるまでの賀び。
 信心の無かった時には、とても味わう事すらも、そんな筈がないと思いよった事の中に、賀びがある事を気づかせて貰い、それを事実自分が感じさせて頂けれる。成程雨の音を聞いて、風の音を聞いて有難うございます。そこに蕗のお知らせを頂くと言う事は、そういうその心が妙賀なのだ。真に有難いと思う心直ぐにみかげの始めと。真に有難いというのはそういう心の状態を言うのだと思います。日頃だから本当におかげを頂いておかなければならない。いや日頃にです。
 成程私の為に降っておるんだ。私の為に照っておるんだと思わせて頂くほどしのお繰り合わせを、日頃頂いておかなければならんのです。例えば四月という月は、考えてみると様々な月でした。もう本当に教会としては、てんやわんやと言うほどしの月でした。けれどもそれが一糸乱れず、それこそ素晴らしいタイミングの元に、四月という月を終わらせて頂いた。降らなければならん時には降り、照らなければならん時には照り。もう本当になんとも言えん、天候のお繰り合わせの中にです。
 成程降ってもおる、照ってもおるけれども、私のために天地が自由になっておられるかと思われるくらいにです。そういう体験というものが、頂かれる感じられる信心を頂かなければならない。同時にお話を頂いて降る事も、照る事も、やはりおかげであるというお話をしっかり頂き。私が今日ご神前でその喜びに、むせておると言う事がです。何故雨の音を聞いて、風の音を聞いて、喜びが湧いてくるのだろう。涙がこぼれてくるほどしに、何故有難うなってくるのだろう。訳は分からない。
 けれどもようく厳密に言うて見ると、日頃その事を教えを芯から頂いておるからであろうか。また願うた事がです。降らなければならない時には降り、照らなければならない時には照るほどしのおかげを頂いておるからでもあろうか。様々なおかげの実感と言うものがです。愈々の時に妙賀になって現れてくる。今朝からの御理解に御神訓、二つを元にしての御理解でした。まめなとも信心の油断をすなという御理解。その次に信心は本心の玉を磨くものぞやと言う、こう連なった御教えであります。
 まめなとも信心の油断をすな、と言う事は、健康であるからと言うて油断をするな。平穏無事だからと言うて油断をするな。商売は順調であるからと言うて、いや今家庭は円満であるからと言うて、信心の油断をするなと言う事なのです。そこで信心の油断をするなと仰る、その信心とはどう言う事を、信心と言うのか。信心とは本心の玉を磨くものぞやとある。だから信心とは、本心の玉を磨くものぞやであります。
 磨いた上にも磨き改まった上にも改まっていくと言う所に、限りない信心の喜びがある。それこそどっから湧いて来るか分からんのだけれども、吹く風の音を聞いても、降る雨の音を聞いても、理屈じゃない。本当に有難くなれるんだと。それを妙賀と言うのだと。その妙賀が尽きると言う事を言う。おかげを頂き過ぎておる。こんな事では妙賀が尽きると。その尽きる妙賀をです、尽きぬまでのおかげ。
 限りなく頂けれるおかげにしていくために、信心の油断をすなと仰るのです。信心の油断をすなと言う事は、ほんならどう言う事かと。毎日朝参りを何十年続けておるから、信心の油断をしておるとは言えません。しとらんとは言えない。一週間に一遍十日に一遍ぐらいしか、お参りは出来んでもです。ひょっとすると、信心の油断はしていない人があるかも知れません。例えば文男先生なんかがいつも言いますね。
 腹立てんなんてん是なんかはもう、いつも信心の油断をしておったらです。もう何時切り込まれるじゃら分からんのです。かと言うて日参り夜参りさせて頂いておっても、お参りしておってから御理解が有難い。ノートして帰ったはぁ今日の御理解は素晴らしい御理解じゃったと言うて、もう一足外へ出たらです信心の油断をしておる人があるです。信心の油断をしないという事がです。本心の玉を磨くと言う事に繋がるのです。
 だから、大事な事なんです。信心の油断をすなまめなとも信心の油断をすな。平穏無事、平穏無事と言うておっても、商売が繁盛しておると言うておっても。一家が円満であると言うておってもです。油断をしてはならない。そこで先ほど幹三郎が、今日は当番で、前講を努めておりました。学院の一年間の生活、そしてこちらへ帰らせて頂いての生活。あちらでは、もう只々無我夢中に勉強させて頂いた。
 信心の修行もさせて頂いたけれど。帰ってくると、もう途端に何とはなしに、その雰囲気がなくなって、残念だという意味のことを言ってる。けれども環境がね矢張り変わってくると、信心まで、このように乱れてくるものであろうかと。そこでです彼が言っておりますのはです。願いを持てという事。お互いに願いを信心に願いがなくなったら、もうそれは信心の、命をなくしたものも同然だと言う様な意味の事も言っておりました。願いを持つ。例えて申しますと皆さんどうでしょうか。
 最近五つの願いが御祈念たんべんにと思いよったのが、この頃御祈念し終わってからあら五つの願いを忘れとったと言う様な事はありませんでしょうか。幾人もそんなお届けがあったんです。私は時々五つの願いはと、こう言うんですよ。あらほんに忘れとった。希薄になっておった。成程どうぞ体の丈夫を願わせて頂いておるけれども、風邪引いた。家庭の不和のないが元と仰るからと思いよるけれども。
 ぶするがっするがあった。こりゃ願いを神様がこの願いを、例えば体の丈夫を願ってから、風邪ども引いたら可笑しいと言った時代があった。そういう幾つかのお願いをさせて頂いた時でしたが、頂きますのがね。丁度目の詰まった日本刺繍ですかね。大きな布に菊の花の刺繍をこうやってある。ですから一遍、二遍例えばこうしたからと言うて良いのじゃない。もう願いにも願い祈りに祈り、祈り込ませて頂かなければいけない。五つの願いと言うのは祈り込まなければいけない。
 日に何回となしにしかも、五年も十年もいわば是を願い続けていかなければならない。そして初めて健康の徳にもなるだろう。家庭円満の徳にもなるだろう。子孫繁盛家繁盛所謂この有難い道を、子にも孫にも伝えていけれるほどしの信心になってくるだろう。真実の御用が出来ますように、本当の意味においての御用が出来てくる様になるだろう。神願成就のための御用の端にも使うて頂けれる願いというもの。
 この五つの願いと言うものがです。いわば祈って祈って願って願って、願い込んでいかなければいけない。それは丁度一針一針、刺繍をしていく様なものだから、もう毎日お願いしよる。日に何べんもお願いしよったばってん、やっぱり風邪引いたけんでとなんてんと思わずにです。この願いだけは、しっかり願わなければならない。願っておるうちに信心が分かる。願っておるうちに、神様の願いと出会うと言う事を、幹三郎は言ってましたですね。自分の願いなんだ。
 自分の願いだけれども、それを一生懸命願っておるうちに、自分の願いではない、神様の願いとの出会いが出来て来る。願うからこそ願いがあるからこそ、一生懸命の御祈念も出来りゃ修行も出来る、拝む事もまた願う事によって、熱が入ってくるというわけです。今日は午後の奉仕ずうっと続いて、日田からのお参りがあった。高芝さんが参ってきた。綾部さん達が参って見えた。それから久し振りにお弁当屋さんの、何とか言いよったっけ、何とか言いよったですね。
 鮎寿司を沢山持って参って見えた。そして今日はここに見えた途端に、孫さん連れてきておる。もうあの人はそれこそ、自分でも大分の女傑の一人だと、自分でも言われるくらいにです。もう偉い人なんですいうなら。元気もんです。ところが最近糖尿病が愈々、ひどくなって、入院しておられる。その入院の病院から今日、抜け出て今日は合楽に一つ、お願いに参ろうと言うて、嫁後を誘うたけれども、嫁後はお参りせんから、孫を連れて参ってきた。そしてここでうつ伏して泣いておられる。
 そしてまぁだ三つ四つぐらいの孫に、お願いばせんの、親先生にお願いばせれと言うて、一生懸命言いよりなさる。けどもあんまりお婆ちゃんが、泣きながら言うもんじゃき、びっくりしてしもうてから、お願いをすると言うて来とったんでしょうきっと。それはどういう事かというとですね。パパがこの頃行方不明になっとる、出ていっとる。彼女が出来た。それでこの頃から出て行ったつが、帰ってきた。その時分には○○会と言う神様にお参りしよった。そしたらやっぱ帰ってきたけんおかげ頂いた。
 もう主人が飛び上がって喜んだ。これからはお父さんあぁたん、うちのお父さんの仕事に手伝いもするからと言うて、その断りを言うてきた。もうそれでこげな嬉しい事は無いと言うて、本当に飛び上がって、主人が喜びました。そしたら四日目でした。四十万か四十何万かの借金があったのを、綺麗に払っとけち言うて払わせた。払わせて頂いたらその晩にまたおらんごつなった。それこそ主人が男泣きに、わんわん泣きました。それで孫であるその子供にです。
 パパがどうぞ帰ってくるように、親先生にお願いをせろと言うておる訳なんです。人間自分の健康が優れなかったり、何か困った事があってくると、心が弱ってくるとても、涙ども見せる人じゃないですけれども。今日はとにかくお縋りして、おかげを頂きたいという、姿勢を示されるんです。それで私は先日から頂いておる、教主様のお詠に、こういうお詠があります「頼りなきものを頼りとするゆえの、この頼りなき不安なれかも。」と言うんです「頼りなきものを頼りとするゆえの、この頼りなき不安なりかも。」
 信心をさせて頂いてね、信心をさせて頂いて一番、始めに分からなければならない所なんです。こら教主様が、四十歳頃のお詠ですから、まぁだご自身不安を持っておられる。それは、頼りにもならない者を、頼りにしておるゆえの、この不安であるこの悩みであると表現しておられるわけです。その弁当屋さんはもう金儲けの名人です。ついこの頃から、私話を聞いたんですけれども、東京に日田のその鮎寿司を、要は引っさげて東京の三越で売られた。もうそれこそ朝からある間ですね。
 もうずうっと売れっぱなしじゃったそうです。もう大変な儲かりをしたと言うて、帰ってこられて身体が悪くなって、病院に入院されたと言うんです。いわゆる金儲けの名人でもある。それこそ気が強い。もうそれこそ男勝りの方であります。ですから私は是を別な紙に書いてやりました。今丁度あなたの心の状態がこれだなと。息子を頼りきっとった。お金さえ、貯めときゃ良いと思いよった。商売のいわばちゃんと、基礎も作ってこれを、息子達にも譲りゃもう自分達は、楽隠居が出来ると思うた。
 夕べは主人と話した。もうこんなこつなら、店もたたんでしもうて、田舎のほうに引き揚げるという話までしておりますとこう言う。そんな淋しい悲しい事を思いなさんな。とにかく今までは、頼りにならないものを、頼りにするゆえのこの難儀なのですから。頼りになるものを、本当に頼りになるものとしてのです、信心をこれから頂いていきなさいと言うてほんなら、目にも見えなければ聞こえる訳でもない。神様の事ですから、それを信ずると言う事は、また大変な事でありますけれども。
 今日前半に申しました様な、生き方の中から神様の、一分一厘間違いのない御働き。それは降ることも照る事も吹く事も、おかげであると分からせて頂く様な信心がです。出来てくる所にもう絶対の神様。絶対の信頼の持てれる神様として、私共の上に働きを頂くことが出来れる信心。それを言うならばここで私が、皆さんに見て貰っておるわけであります。皆さんに信じなさい信じなさいち言うてもです、私自身が信じていなくて、私自身が、それを現していなくして、それを言うたのでは空論になります。
 そこで実のある所を、私を見てくださいと、こういう訳なんです。それこそ天地が私のために自由になっておって下さるのであろうか。本当に天地が親先生のために、自由になっておられると思うと言う様な事実を、目の当たりに見ながら、私の頂いておる所のおかげを、皆さんが感じながらです。私が言う事が嘘ではないいわば焦点にして、信心を進めていく限りです。親先生におすがりさえしておけば、親先生任せになってさえおけばという心の、安全感からそれが次第に。
 安心と言う事になってまいりましての、有難い信心生活。いわゆる妙賀栄えて富貴繁盛のおかげになってくるわけであります。これはね私は本当に思うんですよ。昨日一昨日でした。お食事を終わってから、久留米の井筒屋で、今中国から有名な宝石商が、二つが合同して宝石展を開いておる。見事な招待状を頂いておりましたから、それが二日間しかない。もう、その日一日である。昨日一日であるあぁ一昨日か。それでもう世界で最高と言った様なものは何でも見たり、聞いたりしときたいと私は思うんです。
 だから六千万という指輪をいっちょ、見せて頂きたいと思うてね。行きたいなと言うておる所にほんにこの頃、めがねが合わなくなったから、めがねを変えて頂こうかと言うたら、高橋さんがそんなら、今日は参りましょう。お金もちゃっと準備して持っておりますからと、こう言われる。今日は良いですよという訳。それで参りました。この前あのはめとった金縁めがねがあったでしょうが。あれは五万何ぼぐらいでした。そらまた高橋さんがおかげ頂いてあった。で今度もまたおかげ頂くとこういう訳なんです。
 それでもう私は、五六万ぐらいのもんじゃろうと思うた所が、何とこら良かなと思うて、はめたつは二十万じゃ。こら良かな繁雄さん、ちょいとあんたはめてんのち言うたら、どうもそれがパンダちゃんのごたる風に見えますもん。こりゃパンダちゃんのごつなっちゃいかんけん、まちっとどうかしたつはなかの、と言うた所がもう後は、五万ぐらいのつしかなか鼈甲は。鼈甲はそげん高い。
 そこで丁度良かまぁ十万か、十何万かぐらいなつが、こちらは良いと思っておるのですけれども、無いからそんなら二三日のうちに、取り寄せて、持って上がりましょうと言う事になっとったんです。ほんならそうして下さいち言うて帰ってきた。そしたらです昨日です。伊万里から竹内先生達がご夫婦でお参りになった。何からかそのめがねの話が出来よったら、あらそら先生そのめがねなら、もうお止めなさいませと。先日は鼈甲のめがねを頂いておるけれども、私に合わないというわけです。
 もし先生に合わんなら。レンズだけ換えていただけば良いのですから。恐らくお気に入るかどうか分からんけれども、見事な鼈甲のめがねを頂いておるから、それをお使い下さいとこう言う事である。あぁそんならばこら早う、井筒屋に電話掛けじゃこてと思うてから、出てきた所が二三日ち言いよったつが、昨日持ってきておるわけです。それがもう手に入ったち言うちから、十三万のつば持ってきておる。はぁ丁度こう良かわけ。けれども、あぁた実は今電話をかけるとは、こげんじゃったと。
 いやそらもうそういうのがだから、嘘ではない事が分かった、実際の事ですからね。だからそれはレンズだけでも、いやもしそれが合うならそれになさいませと。わざわざお高いものをして頂かんでも良いですからと言うて向こうも了承してくれた。ですからね、例えば、そう言う様な事であってもです。成程天地が私のバックだな、神様がいつも見ござるな、聞きござるなぁと言う事が分かるでしょう。
 私が前日眼鏡屋に行っとらんなら、竹内先生の所で、見えたからと言うて、私が鼈甲のめがねの話をするはずも無い。行っておったからこそ、昨日たまがりました。こげな眼鏡屋に行ったら、二十万もしてこうじゃったと言う話しが出来た。そんなら先生お止めなさい。先日鼈甲のめがねを、こうして頂いておるからと言うことになってきたんです。だから、そう言う事実をです。皆さんはいつも見ておって下さるのです。
 聞いておって下さるんです。成程妙賀の上には、富貴繁盛が伴うものだと言う事をです。皆さんが聞いておって下さるのです。見ておって下さるのです。だからかく信心せよかくあれと、私が申しますけれども。私が言う事を皆さんが、言う事を聞かないと言う事。いや聞かないのじゃない。聞かせきらないと言う事にです。今日は午後からその事をしきりに悲しいと思いました。
 そんなわけで、今日は日田から続いてのお参りがあって、四時半に下がってお風呂に入っておりましたらあの、日田の長野さんが見えておりますとこう言う。それから慌ててしたら応接間で待ってあった。そらもうこの頃から大変ないろんな問題がありましてね。所が本当に私は長野さん、素晴らしいと思った事は、そういう問題には是からも触れられませんでした。親先生どうぞ達者にしておって下さい、長生きをして頂かなければ、まぁだどうにも出来ない事があります。
 自分の為に長生きをしておってくれと言うわけです。先日からお願いさせて頂いた、東京の弟さんが、この先月の二十三日に亡くなられた。どれだけの金の山積んでも良いと言いましたけれども、もう駄目でした。しかも二時間ぐらいのことで、死に目には会わなかった。もうそれ二十三日という日が、丁度綾部さんとの土地の問題の、最終の日だったんです。もう自分は確かにその、二十二日頃から東京に行きたくて行きたくて仕様がないけれども、その問題をふんまえておるもんですから身動きが出来なかった。
 本当にもう今日はこの間から、色んな事を考えさせられましたですねぇ。それで今日は、その事のお礼お届けと同時にです。私はそういう問題に触れられるために見えたのかと思ったらもう全然触れられませんでした。そして親先生どうぞ、長生きをしておってください。お年は幾つですか。こらこっちは気色の悪うなってきた。いいや私はそげなこつ言いなさると、私は妙な気色のするですよ。
 この頃私はその眼鏡屋に行ってからですたい。私がまぁ五年生きとりゃまた、そん時替えんならんきんと言う様な事を、私はそんな事を言うた事がないんですよ。けども私がもしまぁ五年生きとったらと言った様な事が、非常に引っ掛かっとるとが、そげなこつあぁたが言いなさるなら気色の悪か。私はまだ死なんですがち言うちから、言うたこっでございますけれどもね。是ばっかりは分からん。何時人間はどう言う事になるか。本当に分からんのです。ですからです。
 是だけは持って行けれるというものがです。妙賀ですどっから湧いて来るか分からない喜び。しかもそれは降っても照っても、吹いても有難いと涙がこぼれるほどしに、御礼の言えれる心の状態が妙賀と言う。その妙賀がこの世では、富貴繁盛のおかげの元になり、それがあの世に行っては、極楽の世界に行く事が出来るというのですから。是を目指さなければならんのですけれども、是は私が言う事を、聞かせきらん。
 先日も善導寺の御大祭に、田中先生の話を頂いたが。桂先生が田中先生お徳とは、あんた御神徳御神徳ち言うばってん御神徳はどう言う事か知っとるかち言わっしゃった。さぁ言われてみると分からん。御神徳と言う事はね、働きと言う事じゃと仰った。働きと言う事はどう言う事ですかと言うたら。三代金光様の所にある信者が参った。そしてお届けをさせて頂いて、金光様のご信心には朝参りが。
 一番大切でございますと仰った。それ以来亡くなるまで朝参りを、その方が続けたという話をされた。金光様のお徳というものはそうである。そういう働きを起こせ占めるわけです。それを実行させるわけです。そういう働きになってくる御神徳と言うものは。私共何十年前に御道の教師になられたら結構ですと仰った、あの一言が私を御道の教師にしたんですからね。だから私自身がお徳を頂けば。
 親先生が、あぁ仰っておるからと言うて、みんながおかげを頂くに違いはないけれども。こういう私がおかげを頂きながら、しかも見本を見せながら言うても言う事を聞かせきらんと言う事は、何と悲しい事か。お徳が欲しいお徳が欲しいと言う事になるのです。自分のためじゃない。これを沢山の人に聞いて貰えて、実行させ得る所の、信心の徳と言うものを受けなければならない。
 その信心の徳と言うのが、妙賀が妙賀を栄えてゆき、それこそ喜びの花に喜びの花が咲くように。妙賀と言うのは重ねて咲くんだそうですねこうやって。本当の豊作の時には。と言うように、妙賀が妙賀の上に、また花が咲くようなです。花に花が咲くほどしのおかげを頂くより他には無いなと言う事でした。そこで私はです。今朝からも皆さんに申しましたがです。信心の油断をすなと言う事を。
 今月の私の信心の焦点にさせて頂きたい。皆さんも、ここん所を焦点に置きなさい。信心の油断をすなという事は、ただ毎日お参りをしよると言う事だけではなくてです。心磨きという事に油断をするな。自分の言う事を聞かん。お前はどうして言う事を聞かんかというたらもう磨く事にはなっていない。磨かせいわば言う事を聞かせきらんのだと、自分の心に問わせて頂いて、改まっていくならそれが。
 磨いて行く事になるのですから。もうその事に今月は、愈々信心のまめなとも信心の油断をすなと言う、油断をせんで済む信心を頂かなければならんと言う事をです。今月の信心の焦点にしたいと思う。皆さんもですね。一つ本気でそこん所に焦点を置いて、信心を進め私が言う事が、聞けれるだけの純粋さ。また私も聞かせねばやまんと言うほどしの強い力を頂かせて貰う事に、精進していかねばならんと思うのです。
   どうぞ。